ひとり言

文章に飢えていたかもしれない

読む読む、読みたいんです本当は、といいつつも相変わらず本が読めてなかったけど、半強制的に読む機会が作れました。

本の内容は一旦置いといて、まとまった時間がある中で、整った文章に触れることに喜びのような感覚があって、文字・活字、文章に飢えていたのかなと思ったり。

ネット記事やブログの巡回などで触れる文章と、本を読むことでは、知識を得る以外の意味でもひと味違うものだと感じました。

 

両親(母は付き添い)を病院に送迎し、3人で病院内をぞろぞろ動いても仕方ないので、私は駐車場で両親を待つことにします。

予約の時間は決まっていても患者の人数がかなり多く、待ち時間・診察を含めだいぶ待たされそうだったので、本を持参し読んで待っていれば丁度いいなと思ったんです。

 

一旦、病院内のコンビニでコーヒーを買い、車内に戻ります。

病院の大きな駐車場という、適度な環境音のある場所と、静かに車内を吹き抜けていく風。

この状況で、コーヒーを飲みながら読む読書は、思っていた以上に捗りました。

 

家を出る前は、「時間がありそうだし、しょうがねえから読むか」程度の気持ちでしたが、良い環境と文章の飢えによって、うまくスイッチが入った様です。

毎日ブログを書いていても「文章下手だな~」「ワンパターンな表現しかしてないかも」と己の未熟さを痛感しながらやきもきしているので、読みやすい文章を読み「こういうことなんだよなぁ」と飢えを満たせていることが気持ちよかったのかもしれません。

どこがどう、これがこうだから読みやすい、というのが説明できないのは、まだまだ読書量が足りてないのでしょう。

 

昨日今日は休みだったので1冊読み終えることができたけど、買ったまま部屋に積んである本がまだまだあります。

習慣づけるきっかけにしたいところですが、仕事が終わって家に帰った後で、うまくハマる時間帯が無い。いや、あるはずなんだよ無駄が多いだけで。

本を、文章を、読むことの面白さを感じているはずなのに、仕事終わりはなんだか腰が重い。

合間にちょっと読んで、本の内容が理解できる頭があれば、細かく読めそうではあるのですが難しそうです。

 

本を読むのは、もっとカジュアルでいいなんていいますね。

まだ私にとって読書は、知識を得るための崇高な行為だと思っているのかも。

では、また次回。